新規に開発された技術が、社会で広く使われるようになるまでにはさまざまな課題を解決する必要があります。技術的な課題以外にも法律や倫理、あるいはその技術が社会に受け入れられるかなども検討しなくてはなりません。そうした「倫理的・法的・社会的な課題」をまとめて「ELSI」(エルシー)と呼びます。大学でも研究が広がりつつある「ELSI」の考え方を知っておきましょう。
「ELSI」は、倫理的・法的・社会的な課題の総称
想像してみてください。医療技術がどんどん進化して、人間の脳をそのまま他人に移植できるようになったとします。技術的に可能だとしても、何らかの問題があると感じる人が多いのではないでしょうか?
進みすぎた科学への不安
「他人の脳を移植することは、法律的に大丈夫なのか?」「法的な問題がクリアになっても、倫理的に許されるのか?」「世論(社会)は脳の移植についてどう捉えるだろうか?」
極端な例を出しましたが、このように新たに開発された技術を社会で実用化する過程で生じる「技術以外の課題」が「ELSI」です。これは「ethical, legal and social issues」の略で、「エルシー」と読みます。
「E」…Ethical(倫理的)
「L」…Legal(法的)
「S」…Social(社会的)
「I」…Issues(問題)
そして、これらの課題にどう向き合い、解決していくのかを考えることが、ELSIの研究です。
「ヒトゲノム計画」の中で生まれた「ELSI」
ELSIという言葉が誕生したのは約30年前、アメリカなどで始まった「ヒトゲノム計画」の中でのことです。
「ヒトゲノム計画」は、ヒト染色体の遺伝情報(=ヒトゲノム)をすべて解析しようというプロジェクトです。しかし、このプロジェクトによって重要な個人情報でもある遺伝情報がすべて解析されたら、個人や社会に大きな影響を及ぼす可能性も懸念されていました。
そこで、具体的にどこにどのような影響が出そうなのか、それに対してどう対処していけばよいのかなどを幅広く研究しようとなったのが、ELSI研究の始まりです。
ちなみに、最初にELSIという言葉を使ったのはヒトゲノム研究所の初代所長に就任したジェームズ・ワトソン氏ですが、当時は最後の「I」はImplications(直訳では「含意」の意味)でした。現在でも、Implicationsが使われることもあり、その場合は「倫理的・法的・社会的な影響」と訳されますが、意味や意図するところはIssuesを使う場合と同様です。
「ELSI」が重視される分野とは?
では、どのような研究開発でELSIが重要となるでしょうか。
主に、これまではなかった技術が「現状の法律では対処できない」「利益を得る人がいても倫理的に問題がある」「個人や社会に大きな影響がある」といった研究開発においてELSIが議論される必要が出てきます。
医療科学やバイオテクノロジーの分野
すでに述べたように、ELSIは「ヒトゲノム計画」から誕生したという経緯があり、当初は脳科学や再生医学といった医療・生命に関わる研究や、バイオテクノロジー関連の研究などで、ELSIについて検討されるケースが多かったようです。生命に関わる分野であり、法整備はもちろん、倫理的な問題も大きく、社会からの許容も重要になるためです。
AIやデータサイエンスなどでもELSIが注目される
最近では、人工知能(AI)やICT(情報通信技術)、データサイエンスなどに関わる研究でも、ELSIが注目されています。
AIが関わる研究では、例えば自動運転時の事故における責任の所在が挙げられます。将来、人間が運転しない、完全な自動運転技術が開発されるでしょう。そういう時代に、自動運転の無人タクシーが交通事故を起こしたとします。
その事故の責任はだれが負うことになるのでしょう。クルマに乗っていたお客さんでしょうか? クルマを所有しているタクシー会社でしょうか? あるいは自動運転のシステムを作った自動車メーカーかもしれませんし、自動運転に使われるAIを開発したエンジニアが責任を問われることも考えられます。
さらにはAIによる完全な自動運転は、日本の法律やルールだけでなく、国際条約や各国の法律などの見直しも必要になります。
いろいろなことを検討しなくてはいけませんが、いつか完全な自動運転が実現したときにどのように責任の所在を明確化するのか、まだ最終的な結論は出ていないのです。
また、データサイエンス分野に関わるELSIとしては、大量のデータを扱うことによる個人情報の保護あるいは漏えいなどがまず考えられるでしょう。
国も「ELSI」の重要性を認識
ELSIには、国も強い関心を持っています。科学技術がさらに発展していく上で、ELSI研究が重要な役割を果たすと認識しているためです。
2016年1月に閣議決定された「第5期科学技術基本計画」の中では、ELSIという用語こそ使っていませんが、社会全体で科学技術イノベーションを推進していくためとして「倫理的・法制度的・社会的取組み」の重要性に触れています。
また、続く「第6期科学技術・イノベーション基本計画」(2021年3月に閣議決定)では、Society 5.0(サイバー空間と現実空間を高度に融合した、今後目指す社会の形)を実現するためとして、文理を融合した総合知によってELSIに対応することが必要だとしています。
新たな社会を設計し、その社会で新たな価値創造を進めていくためには、多様な「知」が必要である。特にSociety 5.0 への移行において、新たな技術を社会で活用するにあたり生じるELSIに対応するためには、俯瞰(ふかん)的な視野で物事を捉える必要があり、自然科学のみならず、人文・社会科学も含めた「総合知」を活用できる仕組みの構築が求められている。
文部科学省 第6期科学技術・イノベーション基本計画
https://www8.cao.go.jp/cstp/kihonkeikaku/6honbun.pdf
また、同じく基本計画の中には、「研究開発の初期段階からのELSI対応を促進する必要がある」という記述もあり、国の科学技術における基本方針の一つとして示されているELSIは今後さらに重要性が高まっていくといえるでしょう。
「ELSI」について学ぶ大学の学部、学科
日本の大学では、大学院などでELSIに関わる科目を設置したり、ELSI研究に携わったりというところが増えてきています。例えば、2019年4月にAIに特化した大学院を開設した立教大学では、方針の一つとして「AI ELSI」――AIに関わるELSIの学びを深めることを重視すると表明しています。
また、ELSIを研究するための新たな組織を作った大学も複数あります。ELSI研究のニーズが高まりつつあることを表しているといえるでしょう。
ELSIの研究拠点を開設した大阪大学や中央大学
2020年4月に、「社会技術共創研究センター(ELSIセンター)」を開設したのが大阪大学です。新規科学技術のELSIの洗い出しやELSI研究のあり方を検討したり、ELSIに関わる人材を育成したりなど、ELSIの総合的研究拠点として機能することを目指しています。
また中央大学も、2021年4月に「ELSIセンター」を開設しています。こちらも、ELSIの学術的な研究を行うと共に、ELSIに関わる産官学の連携事業や人材育成などに取り組むとしています。
・大阪大学 社会技術共創研究センター
https://elsi.osaka-u.ac.jp/what_elsi
・中央大学 ELSIセンター
https://www.chuo-u.ac.jp/research/elsi/
なお、「社会技術共創研究センター」の公式サイトには、ELSIの基本的な説明が掲載されています。ELSIに関心を持った人は、一度見ておくことをおすすめします。
ELSI研究に関わるには
現状では、ELSIの研究は大学院レベルで行われているケースが多いようです。ただ、ELSIとしての専門的な研究ではなくても、法律や倫理、社会など各分野の専門知識を学ぶことが、ELSI研究につながる可能性は十分にあります。
また、新規技術の研究開発に携わる側から、ELSIを研究することも可能です(ただし、新規技術の開発がELSIと対立する場合もあるため、開発の当事者だと難しいかもしれません)。
いずれにしろ、ELSIはこれからますます重要になってくる考え方であり、知っておくことは間違いなく意味があるでしょう。