生物の体を作っている水は、私たち人間だけではなく、地球環境にとってもなくてはならない存在です。しかし、人間がさまざまな活動を行うことで、水源が汚染されたり、水を蓄えていた土壌を崩壊させてしまうこともあります。そのような背景を踏まえつつ、水の循環や環境への影響を研究する学問が「水文学(すいもんがく)」です。今回は、水と人との関係性を探る水文学について紹介します。
「水」によって発展したメソポタミア文明は、「水」によって衰退した?
国連の発表によると、2022年の11月に人類の総人口は80億人を突破しました。私たち人類はなぜここまで栄えることができたのでしょうか。その要因のひとつとして「水」と「文明」の存在が挙げられます。
はるか昔、人々は野生動物を狩猟したり、野草や果物を採集することで食料を確保する「狩猟採集社会」を築いていました。その後、新石器時代にインゲン豆や大豆、根菜などの栽培が始まったことで、「農耕社会」が誕生します。
しかし、当時はどちらの社会も確保できる食料が限られていたため、大きな集落をつくることは困難でした。その中で現れたのが、チグリス川、ユーフラテス川という二つの大河に挟まれた「メソポタミア文明」です。
世界最古の文明を生み出した二つの大河
トルコの山脈にある源流からペルシア湾まで流れていくチグリス川とユーフラテス川。この二つの大河は、地面や岩石を砕きつつ、砂や泥、粘土などの砕屑物を下流に運ぶ役割を担っています。この砕屑物が堆積して出来上がった「沖積平野」がメソポタミアです。
大河によって生み出されたメソポタミアの土壌は、山々の栄養を多分に含んでおり、作物の生育に適していました。そのため、ペルシア湾、チグリス川、ユーフラテス川を含む一帯は「肥沃(ひよく)な三日月地帯」とも呼ばれています。
しかしこの地帯の気候は乾燥しており、降水量が少ないため、雨水だけで作物を栽培する「天水農業」には不向きでした。そこで、メソポタミアに移り住んできたシュメール人が始めたのが、河川から農地へと水を引き込む「灌漑」です。
さまざまな文化の誕生に貢献した水
豊富な水資源を活用した灌漑農業を行ったことで、メソポタミアは食糧の大量生産に成功します。その結果、人々の生活にゆとりが生まれ、文字や暦、車輪などの技術だけでなく、さまざまな文化が誕生しました。
これらの存在は、大河を流れる泥を固めた「粘土板」に書き記されています。その中には、人々が守るべきルールを示した「ハンムラビ法典」やシュメール神話、占いの作法、天体観測記録、医学書なども存在しています。
こうして、水を活用することで花開いたメソポタミア文明を皮切りに、私たち人類は飛躍的な発展を遂げていきます。しかし、このメソポタミア文明を衰退に導いたのも水でした。
文明を衰退に招いた「水の循環」に対する知識不足
農業用水として用いられていた大河の水には、少量の塩分が含まれています。そのため、何年も農耕を続けていると、次第に土壌の塩化が進み、作物の生育に悪影響が現れました。
さらに問題となったのが、伐採による森林の破壊です。メソポタミアの人々は、住居を建設したり、レンガを製造するために、周辺に広がる森林を伐採していきました。これによって発生したのが、土が水によって流出する「土壌侵食」です。
森林の土壌は、木々の根に支えられ、落ち葉や下草に覆われることで外部への流出が防がれています。しかし、木々が伐採されたことで、森林の土壌は河川の氾濫や降雨によって流出してしまいます。その結果、流れ出た土砂で灌漑用の水路が埋まったり、農地の塩化が悪化するなど、さまざまな被害が発生したのです。
人々が水の扱いを間違えたことで、豊かな自然環境が広がっていたメソポタミアは砂漠と化し、農業の生産性は大きく低下しました。
このような悲劇を防ぐために、人類は水に関するさまざまな調査や研究を行ってきました。そして、近代になって誕生した学問が、水に対する知識を深めながら、降水量や水質、気候などを監視し、水資源の最適配分などを予測していく「水文学」です。
水の循環を予測する水文学の役割とは
地球上を絶えることなく循環し続ける水。その分布や循環のルートなどを調査し、性質や法則、発生する過程を研究する水文学。この学問は、私たちの生活にどのような形で貢献しているのでしょうか。
ダムや堤防などを活用し、水資源を確保する
水の惑星と呼ばれる地球には豊富な水資源が存在しています。しかしその97.5%は海水であり、淡水はわずか2.5%。そこから氷河や地下水などの利用不可能な水を除くと、人間が生活に活用できる水の量は、地球全体の0.01%しか残されていないのです。
・世界の水資源 – 国土交通省
https://www.mlit.go.jp/mizukokudo/mizsei/mizukokudo_mizsei_tk2_000020.html
このわずかな水を確保して、地域や人々に分配するために、人類はさまざまな取り組みを行ってきました。とはいえ、どれだけダムや水田を設置しても、水の循環は気候変動などによって大きく変わるので、毎年、一定の水量を確保できるとは限りません。
そこで水文学では、雨や水路を流れる水量を年間や季節、月ごとに調査し、変動量を予測することで、雨が降らない渇水や洪水の再現期間を計算しています。
このような研究活動により、各地域で確保できる水の量や、実際に使用できる水資源(飲料水、生活用水、工業用水など)の最適配分問題を計算することが可能になるのです。
洪水被害の発生や規模を予測し、水害を防ぐ
水文学は、ダムや堤防を建設する際に、適切な立地や規模を設定する際にも活用されています。その際に重要となるのが、過去の降水量を統計的に調査することで、10年に一度、100年に一度の大雨が発生する期間を予測する「確率降水量」です。
・異常気象リスクマップ 確率降水量とは – 気象庁
https://www.data.jma.go.jp/cpdinfo/riskmap/exp_qt.html
このデータがあることで、「この地域では30年に一度、一時間に300mmの雨が降る」と予測し、それに合わせたダムの設計や護岸工事を行うことが可能になります。
また、近年は東京や大阪に人や企業が集中したり、郊外にも都市が形成される「都市化」が加速しています。これによって発生する「都市型水害」への対策も、水文学に求められている役割といえます。
都市型水害とは、地面がコンクリートになったり、下水道が整備されることで、従来、土に吸収されていた雨水や排水が河川に集中し、ビルや民家、地下鉄などに流れ込む水害のこと。
水文学では、都市化によって変化した雨水の循環経路を調査したうえで、河川への流量を想定する「流出解析」や「洪水ハイドログラフ」などの計算を行っています。そのうえで、「洪水ハザードマップ」や「洪水予測モデル」を決定することで、水害の発生を防いでいるのです。
融雪現象を研究し、雪解けの原理を解明する
山々に降った雪がとけて、斜面を下り、森林や田畑を潤す「雪解け水」。この水の流れや、融雪の過程を調査することは、水の循環に対する理解を深めるために重要な要素といえます。
水文学では、雪がとけることで森林などに生じる流出や地下水を含めた水収支を計測することで、自然界に水が発生する要因や融雪洪水についての研究を進めています。
そのほかにも、地下水の汚染状況や汚染物質の運搬ルートなどを研究していくことで、水循環のあるべき姿を考えていくことも、水文学に求められる役割といえます。
「水文学」について学べる大学の学部や学科
水文学は、主に農学部や土木工学科などで学ばれています。
岡山大学の環境理工学部 環境管理工学科の流域水文学分野では、「流域における水循環機構」や「人間活動が水循環に及ぼす影響」「洪水・渇水の実時間予測」「温暖化に伴う水資源問題」「最近の異常降雨」などなど、水と人、地域に関するさまざまな研究を進めています。
・流域水文学分野 – 環境理工学部 環境管理工学科 【岡山大学】
http://www.eme.okayama-u.ac.jp/Sections/hydrology/
芝浦工業大学の工学部 土木工学科 平林研究室では、持続可能な社会を構築するために、「水循環の情報社会基盤の開発」を目指し、水文学だけでなく、「気候学」や「地理学」などの自然科学に関する学習や研究を行っています。
・水文学研究室 | 芝浦工業大学 入試情報サイト SOCIETY
https://admissions.shibaura-it.ac.jp/laboratories/guide/detail/0186.html
京都大学の大学院 農学研究科 森林科学専攻 森林保全管理学講座 森林水文学分野では、森林の水循環を調査することで、「緑のダム」「温暖化抑止」「大気浄化」「気候緩和」「水質浄化」などの機能を科学的に解明することを目指して研究を進めています。
・森林水文学分野 京都大学大学院農学研究科森林科学専攻
http://www.bluemoon.kais.kyoto-u.ac.jp/FH/index.html
1964年、ユネスコは水文学について「水文学は地球上の水のサイクルのすべての歴史をカバーする分野である」と定義しています。
現在、地球は温暖化が急速に進んでおり、南極の氷やシベリアの永久凍土もとけ始めています。今後、過去にはない新しい水害も発生していくかもしれません。それに対応していくことも、水文学に求められる使命といえます。
参考文献
水文学 風間 聡 株式会社コロナ社 2011年10月7日