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自然に行動変容を促す【ナッジ】の研究! 行動経済学の知恵を生かしてウェルビーイング社会へ

「そっと肘でつつく」という意味を持つ「ナッジ」は、簡単にいえば「より良い行動を自発的に取れるように、強制することなく促す」こと。今回は行動経済学に基づくナッジについて解説します。

人が「より良い行動」を取るようになるには?

冒頭から品のない話で恐縮ですが、男子トイレの小便器に「的(ターゲットマーク)」を付けておくと、「トイレが汚れにくくなる」という効果があります。便器に的が付いていると、ついつい「そこを狙いたくなる」という心理を狙った作戦というわけです。

実際、オランダにある空港の男性用トイレに、的として「ハエの絵」を描いて実験したところ、トイレの清掃費用が8割も削減できたということです。

このように、自然に良い振る舞いができるように促すことを「ナッジ」と呼びます。これはリチャード・セイラーとキャス・サスティーンが著書「実践 行動経済学」で提唱した行動経済学の考え方で、「行動デザイン」とも呼ばれます。

「トイレの的」が成功した理由

ナッジの優れている点は「強制ではないこと」「複数の選択肢が用意されていること」です。

トイレの的のケースでも実施したのは「的を設置した」だけであり、決して「的を狙え」と強制しているわけではありません。そして、的を狙ってもいいし狙わなくても構いません。行為の選択権は利用者にあるのです。

たったそれだけのことで、「トイレが汚されにくくなる」「他の人も気持ちよく使える」「掃除が楽になる」などの効果が現れたというわけです。

ナッジは行動経済学の理論に基づく取り組み

このナッジ理論の元になっている行動経済学とは、経済学に心理学や社会学の要素を加味したもので、「人間は、必ずしも合理的な選択をするわけではない」ということを前提に経済を考える学問です。

合理的な選択をする人もいれば、不合理な選択をする人もいる中で、「複数の選択肢を用意して、強制することなくより良い選択ができるように促す」というナッジは、行動経済学を社会にうまく応用した例といえるでしょう。

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いろいろなナッジの成功例

すでにナッジはいろいろなところで使われています。身近なところで使われ始めているナッジの例をいくつか紹介しましょう。

スーパーのレジ前に設置された足跡

スーパーマーケットやコンビニでレジ周辺の床を見てみると、足跡が点々と描かれている店があります。あの足跡を見ると、「この足跡に沿って並べばいいんだな」ということが自然に伝わります。

また、近年のコロナ禍でソーシャルディスタンスが呼びかけられているのを受けて、床に設置する「足跡の間隔」を長めに取られるようになりました。それも「行列を作るときに、自然に前の人との距離を取れるように」という考えです。

ユーモアも重要。タバコのポイ捨て減少に

ロンドンではタバコの吸い殻のポイ捨て問題を改善するために、ナッジが活用されました。2個のゴミ箱を並べた上に「WHO IS THE BEST PLAYER IN THE WORLD?(世界で最高のプレイヤーはだれ?)」という文章を書き、それぞれのゴミ箱に「メッシ」「ロナウド」という2人の人気選手の名前を書いたのです。つまり、このゴミ箱は投票箱を模しているのです。

これは、サッカーの母国といわれるイギリスらしいユーモアにあふれたナッジといえます。このようなゴミ箱が街角に置いてあれば、路上にポイ捨てするのをやめて、思わず投票してしまいそうです。

・斬新なアイデアでタバコのポイ捨てが減少「世界最高のサッカー選手はどっち?」
https://www.footballchannel.jp/2015/09/12/post107573/

エレベーター混雑解消のための呼びかけ

近畿大学では、エレベーターの混雑解消のためにポスターを掲示しました。そのポスターには

3階までどう行きますか?
 ・階段 48秒
 ・エスカレーター 56.3秒
 ・エレベーター 1分33秒

と書かれていました。

これは、エレベーターを待っている間に「だったら階段で上ろうかな」と考えさせるというナッジです。このポスターを掲示した後は、以前に比べてエレベーターを利用する人が減ったそうです。

・ナッジされる私たち
https://www.jcss.gr.jp/meetings/jcss2018/proceedings/pdf/JCSS2018_OS05-1.pdf

また近畿大学は、外階段での喫煙を減らす目的で、その場所に「子どもの絵」を設置したところ、喫煙が減ったという効果も見られたとのこと。こちらは「悪い行為をしなくなる」ことを狙ったナッジの例といえます。

<【30分で学ぶ】行動経済学の『ナッジ』【政策現場のための入門講義】by 佐々木周作>

あしき慣習を変容させる実証実験も

人々の間に浸透しているあしき慣習を、ナッジを使って変えていこうという取り組みも始まっています。文京学院大学で行ったのは、エスカレーターの片側空け問題の解消を目的としたナッジの活用です。

急いでいる人が、すいている隙間を歩けるようにという配慮から、長年にわたって「絵エスカレーターの片側を空けて1列になって乗る」のがマナーとされてきました。

ところが、この片側を空ける利用法には、以下のようなデメリットがあり、最近では逆に問題視されています。

  • 歩いて進む人が原因となり、転倒事故が起こっている
  • 片側を空けるぶん乗れる人が減るので、混んでいるときに渋滞する
  • 片側ばかりに重さがかかることで、機械の故障につながる

そのため近年では「両側に立つ」「歩かない」ことが推奨されているのですが、この不思議なマナーは根強く残っているのが実情です。

エスカレーターの片側空けをやめる大学の実証実験

文京学院大学では、ナッジを使って片側空け問題解消を狙って次のような実証実験を行いました。

  • 両側に乗りやすくなるように、左右の手すりにつかまりたくなるようなマークを付ける
  • 歩行防止のために足を載せる部分に足跡のマークを付ける

この実証実験の結果は、以下のURLで公開されています。上りと下りによる違い、時間帯によっての違いだけでなく、アンケート結果も記載されています。アンケートでは、性別、年代別、職業別などによる意識の違い、変化なども調査していますが、「意外」な結果も見られますので、興味、関心のあるかたはぜひご覧ください。

・ヴィジュアルデザインを用いた自発的行動変容
―エスカレーターの歩行抑制を事例とした実証実験―

https://www.u-bunkyo.ac.jp/center/library/ba%202020_065-084.pdf

そしてこの実証実験を通して考案された「人の行動を変えるデザイン(思わずつかまりたくなるデザイン ぎゅっ)」は、2019年に東京の地下鉄のエスカレーターに採用されています。

・経営学部 新田都志子ゼミ生考案の「人の行動を変えるデザイン」が都営大江戸線「中野坂上駅」、「新宿西口駅」、「飯田橋駅」のエスカレーターに導入されました
https://www.u-bunkyo.ac.jp/faculty/business/2019/09/post-37.html

国や地方自治体でも広がるナッジ

ここまでは、一人ひとりの日常的な行為を変容させるためのナッジを紹介してきましたが、国や地方自治体もナッジに注目しています。

  • 健康促進
  • 食生活改善
  • 納税促進
  • 防災意識の向上
  • 省エネ

など、行政に役立つようなナッジの利用も期待されています。ナッジに力を入れている地方自治体としては横浜市が有名です。

・横浜市行動デザインチーム YBiT
https://ybit.jp/

環境省も、産学政官民連携の取り組みとして、日本版ナッジ・ユニット(BEST:Behavioral Sciences Team)を始めています。

・環境省:日本版ナッジ・ユニット(BEST)について
http://www.env.go.jp/earth/ondanka/nudge.html

ウェルビーイング社会に向けて

このようにナッジによって一人ひとりの行動、集団の行動がより良い方向に変わっていけば、私たちの社会ももっと暮らしやすいものになっていくはずです。ナッジは、ウェルビーイング社会(身体的・精神的・社会的に良好な社会)へつながる一歩といえるでしょう。

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みなさんの学校でも「廊下は走らない」「ごみはゴミ箱に」「整理整頓しよう」などのポスターが掲示されたりしているのではないでしょうか。しかし、「なかなか効果が感じられない」ということもあると想像します。そこに、このナッジを駆使すれば、意外な方法でそれらの問題を解決できるかもしれませんね。

「ナッジ」を学べる大学の学部、学科

行動経済学は、経済学に心理学、社会学などの視点を加えたもので、ナッジは主に経済学部や政治経済学部などで扱われます。

また大阪大学 経済学研究科の松村真宏氏が提唱している「仕掛学」もナッジと通じるものがあります。仕掛学とは「つい行動したくなる」という良い行いを促すための研究です。

・大阪大学:「つい行動したくなる」を研究する仕掛学
https://www.osaka-u.ac.jp/ja/news/storyz/storyz_research/201703_special_issue03

参考

・ナッジ:地方公共団体のためのデータ利活用支援サイト 総務省統計局(データ・スタート):
https://www.stat.go.jp/dstart/point/lecture/08.html

・令和2年度政策開発事業最終報告書別冊:行動デザイン適用事例集
https://www.pref.hokkaido.lg.jp/fs/3/3/6/2/0/3/3/_/R2_n_18.pdf