食品や空気、川や海など、私たちの身の回りに存在するすべてのものには、毒となりうる物質が含まれています。その毒性を調査、研究し、私たちの生活に悪影響を及ぼさないようにする学問が「毒性学」です。今回は医療の現場や自然環境の保全など、さまざまな分野に貢献している毒性学について説明します。
この世に存在する「すべての物質」は「毒」である
16世紀に活躍した科学者、錬金術者であり、「毒性学の父」とも呼ばれるパラケルスス。彼は、「すべての物質は毒であり、その服用量によって『薬』か『毒』かに分類される」という金言を残しています。
この言葉の通り、私たちの身の回りを漂っている二酸化炭素は、高濃度になると、一息吸い込んだだけで死をもたらす猛毒に変わります。
また、人間には健康的な食品であるタマネギやニンニクも、犬や猫にとっては毒といえます。これらの食品に含まれている「有機チオ硫酸化合物」には、犬や猫、牛などの赤血球を破壊し、重篤な貧血をもたらす機能があるからです。
このように、空気から食品まで、ありとあらゆる物質は、服用量や受け手の身体構造、暴露する箇所によって、毒にもなり薬にもなりえます。この仕組みを研究し、毒の適切な用法や処理を策定するための学問が毒性学です。
毒性学がなかったら、私たちの生活はどうなる?
「危険な毒物を扱う学問なんて、自分には関係ない」と思うかもしれません。しかし、毒性学が存在しなければ、私たちの身体や生活だけでなく、自然環境にも悪影響が生じてしまいます。
第一に挙げられるのが、「食品や医薬品、化粧品の安全性が崩壊する」ことです。
私たちが食べたり接触したりする多くのものは、毒性学の研究成果をもとに「触っても大丈夫」「食べても問題なし」という判断が行われ、安全性が保障された状態で流通しています。
そのため、毒性学がなければ、「食後におなかを壊した」「身に着けていたら皮膚がかぶれた」といった軽微な問題だけでなく、「重大な病に罹患(りかん)した」「子供の成長に悪影響が生じた」など、深刻な事件が頻発することでしょう。
人々の生活だけでなく、自然環境の保全にも不可欠な毒性学
第二の悪影響としては、「生態系に甚大な被害をもたらす」ということが挙げられます。
現代の人間は、生活をするうえでさまざまな有害物質を排出しています。例えば、工場や住宅から出てくる排水。その中には、水生生物だけでなく、生態系そのものに悪影響を与える危険な物質も含まれています。この排水を無毒化せずに放出し続ければ、河川の生態系はあっという間に崩壊するでしょう。
しかし、毒性学が「環境に排出しても問題ない毒の量」を策定しつつ、「無毒化するための仕組み」を解明し、実用化させることで、環境の悪化を防いでいるのです。
毒性学の研究と目的
毒性学は「自然界に存在する毒から生物を守る」、「人間が生み出した毒から生態系を守る」という役割を持っています。ではそれを実現するために、どのような研究が行われているのでしょうか。
毒の種類、特質を見極めて分類し、対処法を生み出す
一言に「毒」といっても、腐食毒、実質毒、酵素毒、血液毒、神経毒など、さまざまな種類が存在し、それぞれ治療法が異なります。
また、同じ神経毒であっても、暴露してすぐに症状が現れる「即時型毒性作用」だけではなく、数日たってから被害が発生する「遅延型毒性作用」もあります。
さらに、同じ生物であっても、年齢や遺伝によって毒の作用が異なることもあります。例えば、「ハチミツ」。これは、高校生や大人にはおいしくて健康にもいい食品ですが、腸内環境が未発達な「生後1歳未満の乳児」には、乳児ボツリヌス症をもたらす毒物にほかなりません。今では、ハチミツを含む食べ物、飲み物を乳児に与えてはいけないことはよく知られています。
このように、毒はそれぞれ、標的となる部位や作用するまでの時間、蓄積性や依存性など、さまざまな性質を持っています。その毒性を研究し分類したうえで、対策や治療法を確立することは、毒性学に求められている役割のひとつといえます。
毒の性質を調査し、社会に役立つ技術を作り出す
先ほど説明したように、タマネギやニンニクは人々の健康を支える有益な食品ですが、一部の動物には毒となる存在でもあります。このように、「一部の生物には毒となる性質」のことを「選択毒性」と呼びます。
害虫の駆除に用いられている殺虫剤も、選択毒性を活用した製品のひとつです。1910年、スイスの科学者によって、シロバナムシヨケギクという植物から、神経毒であるピレスロイドが抽出されました。このピレスロイド、哺乳類や鳥類には毒性が低いのですが、昆虫類に対しては強い毒性を持っています。
そのため、屋内に散布しても、人体や犬、猫などの哺乳類には悪影響を及ぼさず、害虫だけを駆除できるのです。
工業化学物質による公害を防ぐ
毒性学が社会に浸透していなかった、あるいは軽視されていたころ、工場や鉱山から出る廃水の多くは、解毒などの処理をしないまま、海や河川、山などに捨てられていました。それによって発生したのが、公害病です。
日本でも、海や河川に排出されたメチル水銀化合物が水生生物の体内に蓄積し、それを食べた人々の間で水銀中毒が発生した「水俣(みなまた)病」や、鉱山から出たカドミウムが農業用水や飲料水に混ざり、住人の体内に蓄積してしまった「イタイイタイ病」など、いくつかの公害病が発生しています。
このような悲劇を防ぐために、毒性学では「環境基準」や「許容濃度」などの設定に取り組んでいます。環境濃度とは、大気や水、土壌の汚染を防ぎ、適切に保つための目標となる数値のこと。そして、許容濃度とは人体に悪影響が現れない有害物質の濃度を指します。
毒性学がこれらの数値を設定し、維持することは、人々の健康被害を防ぐだけでなく、公害の発生を予防にもつながります。
新薬の適切な用法用量を研究し、安全性を高める
鎮痛剤、風邪薬のような昔から使われている薬から、新しく開発される「新薬」まで、世界には数多くの「薬」が存在しています。それらの安全性を保つのも、毒性学の重要な役割です。
毒性学では、新薬の安全性を確認するために「安全性薬理試験」や「毒性試験」などを行っています。これらの試験では、実験生物などに投薬を行い、毒性が作用するか否か、人体に蓄積しないかなど、さまざまな調査を行うことで、新薬の安全性を判断しています。
生物の治療から環境保全、法医学との連携まで。多岐にわたる研究領域
毒性学は、その役割と目的によって、いくつかの分野にカテゴライズされています。
例えば、毒の適切な服用量を探る「記述毒性学」や、有害な毒性が発現する仕組みを明らかにする「解析毒性学」などは、人間や家畜が毒を暴露したときの治療に不可欠な研究といえます。
また、医薬品や農薬、食品の毒性を調査し、安全性を保障する「行政毒性学」は、人間社会を運営する上で欠かすことのできない研究領域といえます。
毒性学には、このほかにも「法医毒性学」や「環境毒性学」など、多種多様な研究領域が存在しています。
毒性学について学べる大学の学部や学科
毒性学は、主に獣医学部や薬学部や理学部などで学べます。
北里大学の獣医学部 獣医学科 毒性学研究室では、「環境汚染物質が引き起こすヒト・野生動物(哺乳類に加え鳥類や魚類も対象)への毒性影響」などを調査する環境毒性学の研究を行っています。
この研究室では、環境汚染物質などの毒性評価を進めることで、「環境汚染物質・自然毒の新規毒性試験法の開発」や「分子シミュレーション技術・機械学習による野生動物の毒性評価」などの実現を目指しています。
参考URL
北里大学 獣医学部 獣医学科 毒性学研究室
https://kitasatoxlab.jp/
大阪大学の大学院 薬学研究科 毒性学分野では、「ヒトの健康環境を科学・考究することを通じて、ヒトの健康確保を担う人材の育成と産官学へ輩出」することを目指して、「生殖発生毒性および発達毒性などに関するNano-Safety Science(ナノ安全科学)研究」や「マイクロプラスチックの遺伝毒性、がん原性、免疫毒性などの追求と解毒法開発」などの研究を進めています。
参考URL
大阪大学 大学院 薬学研究科 毒性学分野
https://dokusei.wixsite.com/toxicology
参考文献
トキシコロジー(第3版) 単行本 – 2018/3/9 日本毒性学会教育委員会 (編集)