戦国時代を中心に、日本の各地にお城が築かれましたが、そのほとんどは失われています。それらの失われたお城や現存するお城を対象に研究するのが「城郭考古学(じょうかくこうこがく)」です。今回は、日本の建物や構造、歴史や人々の暮らし、建物の復元まで幅広く研究する城郭考古学について解説します。
日本らしさを感じさせるお城の研究「城郭考古学」
戦国時代から安土桃山時代にかけて日本各地に作られた「お城」「城郭」。日本のお城というと
- 高い天守閣が立っている
- 石垣や土塁(防御のための土手)で守られている
- 水をたたえた堀に囲まれている
- お殿様が住んでいる
といったイメージを持っているのではないでしょうか。
しかし、それはほんの一部に過ぎず、実際のお城にはさまざまなタイプがあるのです。多種多様な国内のお城をテーマに研究するのが考古学の一分野である「城郭考古学」です。ちなみに海外にもお城は存在しますが、今回は日本のお城を対象にした研究について解説します。
<奈良大学 WEB OPEN CAMPUS 2020:文化財学科 千田嘉博教授>
さまざまなタイプの日本の城
日本の城は、古くは中大兄皇子(のちの天智天皇)が作った水城(みずき)の時代までさかのぼります。水城は、白村江の戦い(663年に朝鮮半島で行われた、日本と百済の連合軍と唐と新羅の連合軍の戦争)に破れた日本が、「朝鮮半島での戦いの次は、日本列島に攻め込まれるのではないか」と恐れ、戦いの翌年、現在の福岡県に築いた城です。防御を目的とした土塁と外濠(堀のこと)が中心であり、山と山の間にある平地の通り道を守る役割を持っていました。
さらに翌年には、水城の近くの山中に大野城が築かれます。これは「古代山城」と呼ばれるタイプで、自然の山を利用して石垣や土塁を積み上げて作った城です。百済からの渡来人の知識を使って作られたものとされています。水城と大野城の南、つまり内陸方面には、のちの大宰府という要所があったので、そこで攻めてくる軍を食い止めたいという戦略だったのでしょう。
天然の要塞「山城」
鎌倉時代に武士の時代が到来し、室町時代を経て戦国時代へと向かっていきます。この時代に発達し、各地に作られたのが「山城(やまじろ)」というタイプのお城です。
形状が複雑な山の地形を生かして山の上に城を築けば、天然の要塞として防御に強くなります。そして弓矢や槍を使った武士や足軽の戦いは、位置が上に立つものが、下にいるものよりも攻撃にも防御にも有利に立てます。
(山城の構造によって違いますが)当時の武士たちは普段から山城で暮らしていたわけではなく、日常は山の麓(ふもと)や平野で生活し、いざ戦が始まると山城に立てこもり、攻防を繰り広げていました。
・岡山県古代吉備文化財センター:城をまもる
https://www.pref.okayama.jp/site/kodai/628817.html
山城としては、新潟県にある春日山城(上杉謙信で有名な上杉家が主な城主)、島根県にある月山富田城(尼子氏や毛利氏が城主)が有名です。
城下町の中心「平城」
戦国時代の終わりになると、山城から「平城(ひらじろ)」へとお城のタイプが変わってきます。平城とは平地に作るお城のこと。山城はもっぱら軍事的な目的で使われていましたが、平城は軍事に加えて政治、経済の拠点としても機能するのが特徴で、城主の権威を広く示すという意味合いもありました。
典型的な構造としては、天守閣のある本丸の周囲を二の丸、三の丸が囲み、さらにその周囲に町人の住む城下町が広がります。つまり、お城は人々が日々の生活を送る場でもあったわけです。お城というと天守閣のイメージが強いかもしれませんが、城下町まで城郭考古学の研究対象を広げると、お殿様、武士、足軽、町人、農民が暮らす街全体となるのです。
ちなみに、平地にある丘陵に築いた城を「平山城(ひらやまじろ)」、海辺や湖のほとりの平地に建てたお城は「水城(みずしろ)」と呼びますが、これらも平城の一種とする説もあります。有名な平城としては名古屋城、京都の二条城、平山城には江戸城や大阪城など、水城には香川県の高松城などが挙げられます。
失われてきたお城の歴史
戦の多かった戦国時代には、各地にたくさんのお城が作られました。しかし、江戸時代に入り、戦のない世の中が到来すると状況が一変します。1615年には江戸幕府が「一国一城令」を制定しました。これは、大名が暮らすお城だけを残して、それ以外のお城はすべて取り壊すよう命じたものです。これにより交通の要所や戦略的に重要な場所にあった多くのお城は取り壊されてしまいました。
また武士の世が終わる明治維新のあとにはいわゆる「廃城令」と呼ばれている太政官達が発布され、陸軍の財産として残すもの以外は、残っていたお城も壊され県庁や役所、公園などに作り変えられました。第二次世界大戦時の空襲により、焼失、倒壊したお城もあります。このようにして、多くのお城が失われてきたのです。
それでも彦根城、姫路城、犬山城などのように江戸時代からの天守閣が残るお城がいくつか残っています。それらは「現存天守12城」と呼ばれ、国宝に指定されるなどして、大切に保存されています。
城郭考古学の研究とは
城郭考古学は、日本に現在残されているお城、失われたお城に関する研究です。石垣の組み方、天守閣、塀や門、櫓(やぐら)や曲輪(くるわ、塀や土塁で囲んだ場所のこと)、水堀などの配置や構成、お城の歩んだ歴史、防御力などを、さまざまな角度から研究していくものです。
失われたお城の復元
現在、各地のお城や城跡が観光スポットや公園して活用され、天守閣に登って眼下を一望したりして、楽しむことができます。しかし、前述の通り、ほとんどのお城の建物は失われています。つまり、今私たちが登っている天守閣などは、後に再建、復元したものなのです。
その復元にも城郭考古学が役立てられています。考古学を駆使して、どこに何の建物があったのか、どのような構造だったのかなどを調べたうえで、現在の建物が復元されているのです。
秀吉時代の大阪城の姿は?
お城の昔の姿を明らかにする、復元するといっても簡単なことではありません。例えば「大阪城を作ったのは豊臣秀吉」と思っている人がほとんどではないでしょうか。それは半分正解で半分間違いです。
というのも、大坂の陣で秀吉が作った大阪城は燃え落ちているからです。その後、徳川幕府は秀吉の大阪城の跡に土を盛り、まったく新たに大阪城を築き上げました。さらにその後、江戸末期にほとんどが焼失し、1930年から天守閣が再建されています。
しかし、昭和になって地下から秀吉時代の石垣が発見されました。その後、秀吉時代の大阪城本丸の地図も発見されました。こうして今もなお、秀吉時代の大阪城の姿を明らかにしようという研究が続いています。
・大阪市立大学
豊臣秀吉が築いた大坂城の構造を解明~天守台の基礎を初めて確認。本丸周辺の高さや広がりを明らかに~
https://www.osaka-cu.ac.jp/ja/about/pr/press/2019/190604-1
・大阪城 豊臣石垣公開プロジェクト
地下に眠る秀吉の大阪城
https://www.toyotomi-ishigaki.com/hideyoshi/index.html
発見が困難なお城の痕跡を最新技術で発見、デジタルで再現
長期間にわたって利用されていたお城は、途中で改築や増築、修繕が行われることもあります。そのような時間の流れに応じた変化を追跡するのも城郭考古学の研究テーマのひとつです。
また山城の痕跡になると、草木などに覆われてしまい、ただの土の盛り上がりにしか見えなくて、発見が困難な遺構もあります。航空レーザーによる照射を分析することで「ここに城跡があったのか」とわかるようなケースもあります。
橿原考古学研究所とアジア航測は、2015年にレーザー計測により、奈良県の高取城の赤色立体地図(色の濃度で山の傾斜などを表現した、立体的な地図)を作成しました。その結果、お城の古地図には記載されていなかった堀切(敵を足止めするための堀)などの遺構を発見しています。
・奈良県立橿原考古学研究所会議室
奈良県高取城の赤色立体地図
https://www.ajiko.co.jp/wp-content/uploads/2018/08/news/2015/20150708takatori.pdf
上杉謙信の攻めを何度も撃退したことで有名な栃木県にある唐沢山城でも、レーザー測量による立体地図が作成されています。その成果が動画でも公開されています。非常にわかりやすくまとめられているのでぜひご覧ください。
<国指定史跡 唐沢山城 航空+地上レーザ測量事例>
地震で崩落した熊本城の新発見や復旧にも貢献
熊本城は、加藤清正は城づくりの名人と呼ばれた加藤清正によって築かれたお城です。この熊本城は、2016年の熊本地震の際に石垣や建物の一部が崩落しました。
この復旧作業のなかで江戸時代にあった櫓(やぐら)の基礎が発見されています。地震による被害は悲しいことですが、崩壊したことで通常は見ることのできないところの調査が可能となり、新しい発見につながっています。
・江戸期の櫓基礎見つかる 熊本城 石垣復旧工事を公開:西日本新聞
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/649925/
また熊本大学と凸版印刷は、過去の石垣の映像データと照合して、崩壊した石が本来あった位置を特定する「石垣照合システム」を開発し、復旧の効率化に貢献しています。
・熊本大学と凸版印刷、熊本城崩落石材の位置特定作業を効率化:熊本大学
https://www.kumamoto-u.ac.jp/whatsnew/sizen/20190524
「城郭考古学」を学べる学部、学科
城郭考古学は歴史学、考古学の一部なので、主に文学部、歴史学科、史学科などで扱われます。
ただし地中の遺物の探索や調査に、「レーザー測量の結果を分析する」「3D地図を作製して地形を分析し遺構を探す」といった手法も取り入れられているので、テーマは文系でも研究内容は理系ということもあります。歴史が好きな人でなければこの道に進むことができませんが、文系と理系両方の知識が必要になるマルチな才能が求められるのも、城郭考古学の醍醐味(だいごみ)といえるでしょう。
参考
・ウィキペディア 日本の城
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%9F%8E