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ウイルスは人類の敵か、味方か? 【ネオウイルス学】という新しい研究アプローチ。ウイルスは人間の出産に不可欠だった!

新型コロナをはじめ、さまざまな感染症の原因とされるウイルス。しかし、近年の研究では宿主やコロニー、自然環境の維持にウイルスが貢献していることもわかってきました。そのように、生態系のなかで共生している仲間としてウイルスを研究するのが「ネオウイルス学」です。今回は、始まって間もないネオウイルス学について解説します。

「ネオウイルス学」とは?

ウイルスというと「人間を病気にするもの」というイメージが強いのではないでしょうか。新型コロナウイルスはいうまでもなく、インフルエンザ、ヘルペス、風疹、エイズ(HIV)などなど、ウイルスが原因となり発症する病気は数多くあります。また、子宮頸(けい)がんの発症にもヒトパピローマウイルス(HPV)が関わっているとされています。

そういうウイルスにはしっかりとした対策が必要であり、従来のウイルス研究は「感染病対策」という面も持っていました。しかし、その一方でウイルスを「病原体」として見るのではなく、「大きな生態系を構成する、私たちと共生する存在」という広い視点を持ったウイルス研究も生まれました。

「ウイルスとは何か?」「どのように宿主や環境と関わっているのか?」「実は役立っている面もあるのではないか」という視点に立ち、ネガティブな面だけでなくポジティブな面にも目を向けてウイルスをとらえようという新しい学問が「ネオウイルス学」です。

・新学術領域「ネオウイルス学:生命源流から超個体,そしてエコ・スフィアーへ」(日本ウイルス学会)
http://jsv.umin.jp/journal/v66-2pdf/virus66-2_155-162.pdf

人間の体は複数の生命体の集合体

人間はみな一人1個ずつの命を持っているーー。私たちはそのように認識して日々生きていますが、本当にそうでしょうか。

一人の人間の体内には、数多くの微生物、細菌、ウイルスが同居しています。ある種の腸内細菌が大幅に減少するようなことがあれば、腸内のバランスが崩れて、体調を悪くしてしまうこともあります。

また、私たちは酸素呼吸をして生きていますが、その役割を担っているのは、細胞に含まれるミトコンドリアです。しかしこのミトコンドリアはもともと別の生き物でした。私たちの祖先は酸素呼吸をせずに生きていたのですが、進化の途中でミトコンドリア(の祖先)を取り込んだ結果、同じ細胞のなかでの共生に成功し、酸素呼吸ができるようになったと考えられています。

病気を引き起こすものはわずか。多くは無害なウイルス

つまり、私たちの体は、複数の生命の集合体であり、他の生命体と共生しながら進化してきた結果が、今の人類であり、生物なのです。そして近年の研究の結果によって、ウイルスもまた私たちの進化に関わってきていたということが解明され始めました。

さらに、「病気を引き起こすウイルスは多くはない」「むしろ他の生物と上手に共生している無害なウイルスのほうが多い」ということも見えてきたのです。

ウイルスは人間の出産にも役立っている

ウイルスが私たちの活動に役立っているとはどういうことでしょうか。そのひとつの例に出産があります。哺乳類では母親の体で受精が起こると、胎盤が作られ、そこで赤ちゃんが育っていきます。実は、その胎盤形成にウイルスが関わっていたのです。

人間のDNAの一部には、内在性レトロウイルスの断片が含まれています。内在性レトロウイルスとは、外から侵入したレトロウイルスが宿主のDNAに組み込まれてしまったものです。そして生殖細胞に固定化されたものは子孫へと受け継がれていきます。

2015年の東京大学大学院農学生命科学研究科は、その内在性レトロウイルスの一種が胎盤の形成に使われており、同じ役割を持つさらに優れた内在性レトロウイルスが入り込んだ場合は、優れたほうを使うようになっていくと発表しました。

・哺乳類の胎盤形成にはウイルスが関与しており、その遺伝子は順次置き換わることができる(東京大学大学院農学生命科学研究科)
https://www.a.u-tokyo.ac.jp/topics/2015/20151005-1.html

<京大 おどろきのウイルス学講義【第2弾】|宮沢孝幸(京都大学 ウイルス・再生医科学研究所)|PHP新書>

つまり、赤ちゃんを産むための胎盤を形成するにはウイルスの力が不可欠だったわけです。そう考えると、ウイルスは「病気を広げる悪い存在」ではなく、「私たちと共生する存在」だという考え方も理解しやすくなるのではないでしょうか。

仮に、哺乳類の祖先が胎盤形成に関与するウイルスを取り込んでいなかったら、今の人類はどういう形で出産していたのでしょう。もしかしたら、人類も卵で子供を産んでいたのかもしれませんね。

昆虫の活動をウイルスが左右する?

宿主の行動にウイルスが影響を与えることもあるようです。

ミツバチの働き蜂は、敵と遭遇すると自分たちの集団を守るために針で攻撃を仕掛けます。そして敵に突き刺した針はミツバチから抜け落ち、その結果攻撃した側のミツバチが死ぬことになります。ところが、すべての働き蜂が敵に攻撃を仕掛けるわけではありません。敵から逃げる働き蜂もいたのです。

そこで、攻撃する群と逃げる群を研究したところ、攻撃する群の脳が新しいウイルスに感染していることがわかったのです。これはkakugoウイルスと名付けられました(いうまでもなく、日本語の「覚悟」に由来しています)。

ただし、kakugoウイルスが本当に働き蜂の攻撃性に関係しているかはまだ研究の段階です。しかしこの研究には大きな意味があります。ミツバチは、子孫を産む「女王蜂」、女王蜂と交尾する「雄蜂」、生殖能力を持たず蜂蜜を集める「働き蜂」からなるコロニーを形成します。アリやシロアリなども同様なコロニーを形成します。このようにコロニー全体があたかもひとつの個体のように振る舞う集団を「超個体」と呼びます。その超個体のあり方や行動に、ウイルスが関与しているという可能性を秘めているのです。

・Kakugo ウイルス:攻撃性の高い働き蜂の脳から同定された新規ウイルス
http://www.bs.s.u-tokyo.ac.jp/~saibou/kakugo.html

地球環境をウイルスで守る研究も

ウイルスを積極的に活用して、自然環境保護に役立てようという研究もあります。

海や湖ではたびたび赤潮の被害が起こっています。赤潮とは、水中の植物プランクトンの大量発生などにより、水が赤褐色、茶褐色などに変色する自然現象です。有毒性プランクトンが大量発生した場合は、魚類や貝類などを死滅させることもあり、漁業関係者に大きな被害をもたらします。

赤潮を引き起こす有害プランクトンの一種にヘテロカプサ・サーキュラリスカーマがあります。そしてこのヘテロカプサ・サーキュラリスカーマに感染して死滅させるウイルスがHcRNAVです。

2020年、国立研究開発法人 水産研究・教育機構は、ヘテロカプサ・サーキュラリスカーマによる赤潮に対してHcRNAVを使う研究成果を発表しました。実際に赤潮が発生したとき、その水面にHcRNAVを含む泥を含んだ水槽を設置して、効果を検証したのです。その結果、水槽内のヘテロカプサ・サーキュラリスカーマの密度を1%未満にまで減らすことに成功しました。

・ヘテロカプサ・サーキュラリスカーマに感染するウイルスHcRNAVを含む海底泥を利用した赤潮防除技術の実用化に向けた評価 (環境保全部)(国立研究開発法人 水産研究・教育機構)
https://www2.fra.go.jp/xq/seika/seika007-2/

もしかしたら将来、赤潮に限らず、土壌や河川、森林などの環境維持に役立つウイルスが発見されるかもしれません。

「ネオウイルス学」を学べる大学の学部、学科

ネオウイルス学は、文部科学省の「新学術領域研究」として2016年から5年にわたり研究が進められました。ここには、東京大学、大阪大学、北海道大学、岡山大学、東北大学、高知大学などの研究者が名を連ねています。

・Neo-Virology:ネオウイルス学
http://neo-virology.org/

それぞれが所属する学部、組織には、ウイルス研究所、人獣共通感染症リサーチセンター、微生物病研究所、医科学研究所、資源植物科学研究所、農学研究科、農林海洋科学部などが挙げられています。そこから、いろいろな専門分野の研究者が協力して取り組んでいることがうかがえます。

ネオウイルス学に興味があるなら、この事業に関わった研究者が籍を置く大学、学部、組織から探してみてはいかがでしょうか。