働き方の多様化やコロナ禍の影響で、雇用保険や生活保護に代表される社会の「セーフティーネット」にも変化が求められています。また、現状の制度をさらに推し進めた”究極のセーフティーネット”とも呼ばれる「ベーシックインカム」が世界的に話題で、実証実験が行われるなど各国で研究が始まっています。「セーフティーネット」の最新事情を解説します。
「セーフティーネット」とは、安心な暮らしを支える「安全網」
「セーフティーネット」とは、直訳すると「安全網」のこと。もともとは、サーカスで空中ブランコをする際などに、万が一の落下に備えて張られたネットを指します。そこから転じて、失業や病気、高齢といったさまざまな要因による経済的な困窮などに備える社会保障制度を、セーフティーネット(または、社会的セーフティーネット)と呼ぶようになりました。
主なセーフティーネットの例
では、具体的にはどのようなものがセーフティーネットにあたるでしょうか。いろいろな考え方や分類の仕方がありますが、主なものとしては、老齢や障害などによる収入の減少を補塡(ほてん)する「年金保険」、失業時の収入減少などに備える「雇用保険」、誰もが安心して医療を受けられるようにする「医療保険」、そして、病気その他の理由で働けなくなっても日本国憲法第25条で保障している「健康で文化的な最低限度の生活」を送れるようにする「生活保護」制度などが挙げられます。
なお、一口にセーフティーネットといっても、年金保険や雇用保険、医療保険といった社会保険と、生活保護の間には大きな違いがあります。社会保険は、いずれも原則は保険料を納付することが受給の条件です。一方の生活保護は、生活が困窮した場合に国民の誰もが受けられる公的扶助であり、事前に保険料などを納付する必要はありません(生活保護費は国民の税金で賄われています)。
働き方の多様化で見えてきた「セーフティーネット」の問題点
セーフティーネットは、人々が安心して暮らすためになくてはならない仕組みです。ただし、現状では万全なものとはいえず、さまざまな問題も抱えています。
「第1のセーフティーネット」から漏れてしまう非正規雇用者
問題点のひとつが、多様な働き方への対応が不十分ということです。セーフティーネットのうち、「第1のセーフティーネット」という位置づけにあたる雇用保険は、主に正規雇用者が失業したときなどに備えるための制度になっています。
しかし、非正規雇用者は年々増え続けていて、2021年7月分の「労働力調査」によると、雇用者全体に占める非正規者の割合は36.5%――3人に1人以上が非正規雇用者です。また、フリーランスとして働く人や、「ギグワーカー」と呼ばれるネット経由で単発の仕事を請け負う労働者も増えています。
フリーランスやギグワーカーなど自営業者に分類される人は、公的な雇用保険には加入できないため、仕事を失っても失業給付を受けることはできません。また、一定時間以上働く非正規雇用者は雇用保険に加入しますが、失業給付を受けるには原則「退職前の2年間のうち12カ月以上の被保険者期間が必要」という決まりがあり、雇用保険に加入しているにもかかわらず失業給付を受けられない、という人も少なくありません。
つまり、雇用保険がすべての人にとってのセーフティーネットにはなっていないということが問題なのです。
問題解決のカギは「第2のセーフティーネット」の強化
多様な働き方に対応したセーフティーネットの必要性は、以前から指摘されてきました。2021年6月4日に内閣府が公表した、よりよい未来のために実現すべき政策などをまとめた報告書『選択する未来2.0』の中でも、「多層的で個別最適化されたセーフティーネットの拡充と安心の確保」としてこの問題を取り上げ、解決のための策を以下のように提示しています。
企業による雇用を前提とした社会保険であっても被用者保険のさらなる適用拡大により、その対象者を広げていく余地は十分にある。適用拡大を着実に進めつつ、そこから漏れる労働者に対しては、求職者支援制度や生活困窮者自立支援制度といった第2のセーフティネットを強化して提供する。特に、現在、雇用保険等の対象から外れている非正規雇用労働者や若者、母子世帯については、正規・非正規の区分をなくすことを目指しつつ、セーフティネットを強化することが急務である。
内閣府「選択する未来2.0 報告」
https://www5.cao.go.jp/keizai2/keizai-syakai/future2/saishuu.pdf
上記の内容を一言にまとめると、「第1のセーフティーネット」である雇用保険の適用範囲を広げつつ、「第2のセーフティーネット」を強化することが重要だということです。
現状では規模が小さい「第2のセーフティーネット」
ここで、「第2のセーフティーネット」について簡単に説明します。第2のセーフティーネットとは、「第1のセーフティーネット」である雇用保険と「最後のセーフティーネット」である生活保護の間を補完する仕組みで、具体的には報告書内にも記載されている「求職者支援制度」や「生活困窮者自立支援制度」などがあります。
この「第2のセーフティーネット」がしっかり機能すれば、仮に雇用保険からは漏れたとしても、生活保護を受給する前の段階で、生活を立て直すことが可能になります。
ただし現状は、雇用保険制度の支出額が9064億円、生活保護制度の支出額が3.59兆円なのに対して、求職者支援制度+生活困窮者自立支援制度の支出額は811億円(いずれも2019年度実績)です。雇用保険や生活保護に比べると、「第2のセーフティーネット」は小さな規模にとどまっています。
「ベーシックインカム」は、究極のセーフティーネット?
従来のセーフティーネットは、いずれも「必要に応じて支援を行う」という制度でした。一方、最近注目を集めている「ベーシックインカム」の場合は、内容がまったく異なります。
ベーシックインカムとは、政府が全国民に対して生活に必要な最低限の金額を定期的に支給する制度のことです。「所得が低い」「働けない」といった理由は不要で、誰にでも無条件で一律に支給することから「究極のセーフティーネット」と期待している声もあります。
名称については、日本語では「最低生活保障」「基礎所得保障」などと呼ばれるほか、英語の「Basic Income」の頭文字を取って「BI」といわれることもあります。
2010年代後半から、海外ではフィンランドやカナダ、オランダ、ブラジル、イランなど複数の国で、実証実験や試験的な導入が行われています。また日本では、2020年に経済学者の竹中平蔵・慶応大学名誉教授がテレビなどでベーシックインカムについて発言したことなどから、注目度が上がりました。
世界中で「ベーシックインカム」が注目されている理由
理由のひとつは、新型コロナウイルス感染症の拡大です。収入源を絶たれるなど世界中で多くの人が経済的な打撃を受ける中で、これまでのセーフティーネットでは不十分だという議論が出てきました。
また、以前から日本より失業率が高く貧困問題がさらに深刻な海外では、最低限の所得が広く保障されれば、失業による生活不安をある程度解消できるということも、ベーシックインカムが注目される理由です。
さらに、将来的には人工知能(AI)の普及で「無くなる仕事」が増え、失業率が上がっていくのではないかと予測されていることも、ベーシックインカムの検討が進んでいる背景のひとつと見られています。
生活不安の解消により、金銭目的の犯罪などが減るといったメリットも期待されています。また、アートの才能があるにもかかわらず「食べていけそうにないから普通の職に就く」という人も、「ベーシックインカムがあるなら夢を追いかけられる」という社会になるかもしれません。
ベーシックインカムで働く意欲が減退する?
誰もが等しく現金を受け取ることで、生活不安を解消できるというのがベーシックインカムの最大のメリットですが、その反面、現金支給によるデメリットもあると懸念されています。それが、働く意欲の減退です。「何もしなくてもお金がもらえるなら、働きたくない」という人が増えるのではないか、ということです。
ただ、これまでのところ、海外の実証実験では「勤労意欲の減退」がベーシックインカム導入のデメリットとして、大きく取り上げられたことはありません。
ベーシックインカムの最大のハードルは、財源問題
日本では、2020年に「新型コロナウイルス感染症緊急経済対策」として1人10万円の特別定額給付金が全国民に支給されましたので、覚えている人も多いのではないでしょうか。このときの事業費は12兆7400億円でした。たった一度の支給でも、全国民となるとこれだけの費用がかかります。
日本でベーシックインカムが導入された場合、老齢基礎年金(2021年度の金額で月額換算6万5075円)と同程度の約7万円がひとつの目安になるといわれています。仮に7万円を全国民に毎月支給すると、年間では105兆円にも上ります。これは、日本の国家予算と同レベルの金額です。
もちろん、ベーシックインカムが導入されれば、社会保険や生活保護といった既存のセーフティーネットは整理・縮小されると考えられます。それでも、毎月、全国民に一定額を支給するには大きな財源が必要になり、これがベーシックインカム導入の最大のハードルになると見られています。
実は、海外のベーシックインカムの実証実験でも全国民に無条件で現金を支給している例はなく、無作為に選んだあるいは収入や資産の条件を満たした数千名というケースが一般的です。ベーシックインカムの本格導入への検討は、まだ始まったばかりといえるでしょう。
「セーフティーネット」について学べる大学の学部、学科
「セーフティーネットによって社会的弱者を救いたい」など、社会福祉の観点から研究するなら、主に社会福祉学部や社会学部の社会福祉学科を検討するとよいでしょう。また、社会保障制度や社会保障政策の望ましいあり方という方向から考えるのであれば、経済学部や法学部の政策関連の学科、公共政策学部などが考えられます。
上智大学 総合人間科学部 社会福祉学科
https://www.sophia.ac.jp/jpn/program/UG/UG_HS/UG_HS_SocialServices.html
立教大学 コミュニティ福祉学部 コミュニティ政策学科
https://www.rikkyo.ac.jp/undergraduate/chs/department_01.html
近畿大学 経済学部 総合経済政策学科
https://www.kindai.ac.jp/economics/department/general-economics/about/